今回のテーマは大宰府政庁。
大宰府政庁といえば、かつて九州の統括と外交の窓口を担っていた巨大な行政機関。
この大宰府政庁はいつ、どこにあったのでしょうか?
地図・写真を基に、その歴史を分かりやすく解説していきます。
きっと大宰府政庁周辺の地形を見たら驚くはずです。
大宰府政庁はいつ、どこにあった?役割は?
大宰府政庁は7世紀後半から約500年に渡り九州を統括し、外交・軍事・経済を担った行政機関。
大宰府政庁があった場所は、大宰府政庁跡として現在も残っています。
こちらが大宰府政庁跡↑
大宰府の前身は、536年に大和政権が博多付近に設けた那津宮家(なのつのみやけ)でした。
なぜ、この那津宮家は大宰府へ移転してきたのでしょうか?
そこには、663年に現在の韓国中西部で行われた白村江(はくそんこう)の戦いが大きく関係してきます。
この戦いで倭(日本)は百済と連合軍を作ったのですが、唐・新羅の連合軍に大敗を喫しました。
そこで「大陸から日本へ敵が攻め込んでくるかもしれない」と、湾岸にあった那津宮家を内陸へ移設したのです。
その後、大宰府は律令制のもと、特別行政府として整備されていきます。
最盛期には大宰府で1000人を超える官人(官僚)が働いていました。
当時、地方の役所において役職の数は10程度でしたが、大宰府の場合は約50もの役職が置かれており、この数字からも大宰府が如何に重要な拠点であったかが伺い知れます。
中央集権が原則だった時代において、大宰府は異質な存在でした。
しかし、平安時代以降は大宰府を取り巻く環境も大きく変化していきます。
上級官人の赴任が以前と比べて少なくなり、逆に失脚した者の左遷先となることが多くなってきたのです。
その代表的な人物が現在、太宰府天満宮にて「学問の神様」として崇められる菅原道真公でした。
大宰府の政治的な利用価値は徐々に低下し、平安末期には政治的な中心地は博多へ移りました。
そして、鎌倉時代に鎮西探題(幕府の九州統括機関)が博多に置かれると、大宰府は実権を失って機能を停止したのです。
地図の赤丸部分が大宰府政庁跡↑
航空写真で見ると、このようになっています↑
大宰府政庁の規模は東西119.20メートル、南北215.45メートルでした。
現在は公園になっており、建物の礎石や石碑などがあります。
大宰府政庁がここに置かれた理由
なぜこのような巨大な行政機関がここに置かれたのでしょうか?
前述の通り、大陸からの襲来に備えて内陸へ移転したわけですが、そこには地形も大きく関係していました。
これならば博多湾から敵も攻め込みづらいです。
しかも太宰府政庁の南側には、お堀の代わりとなる川まで流れていたのです。
つまり、このような地形を生かした防衛拠点があった為、この地に大宰府政庁が置かれたのです。
次に大野城と水城がどのようなものだったのかを解説していきます。
大野城とは?
大野城とは、大宰府政庁の北側に位置する山城のこと。
遠くに見える平らな山が四王寺山(しおうじやま)。
この四王寺山に大野城は白村江の戦いの後に築城されたのです。
大野城は山の周囲8km以上の城壁を持つ日本最大の古代山城で、大宰府政庁を守る大事な防衛拠点でした。
水城とは?
大野城が山に作られた防衛拠点であるのに対し、水城は平地に作られた防衛拠点でした。
水城とは、全長1.2km・幅77m・高さ9mの人の手によって作られた巨大な土塁。
白村江の戦いに大敗した翌年の663年に大宰府防衛のため、築かれました。
現在は高速道路や線路によって分断されていますが、以前は一直線上に繋がっていました。
当時の水城は、土塁の博多湾側に幅60メートルのお堀があったそうです。
土塁を造り水を貯えることから「水城」という名前がつけられました。
山に囲まれ、海からやってくる敵を阻止するには良い場所だということから、水城はここに作られたのです。
また、水城は日本で最初に築造された国家レベルの防衛施設でもあります。
竈門神社は大宰府政庁の鬼門封じだった
ここでちょっとした余談。
太宰府天満宮から程近い場所に縁結びで有名な竈門神社があります。
理由は「鬼滅の刃」の主人公である竈門炭治郎の名前の由来になったと言われているからです。
そんな竈門神社なのですが、大宰府政庁とは実に深い関係があります。
竈門神社は大宰府成長から見てちょうど鬼門(北東)に位置します。
これは単なる偶然ではなく、竈門神社はもともと太宰府政庁の鬼門封じとして作られたのです。
このことから竈門神社は色んな意味で「鬼」と深く関係のある神社と言えるでしょう。
まとめ
以上、大宰府政庁の歴史についてでした。
前述の通り、大宰府政庁は九州の統括と外交の窓口を担った巨大な行政機関でした。
山に囲まれており、水城という巨大な壁がある為、防衛力が高い場所としてこの地が選ばれたのです。
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