今回は福岡市西区今津にある元寇防塁をご紹介します。
写真での雰囲気に加えて、駐車場の情報などもお伝えします。
まだ行ったことのない方は参考にしてください。
元寇防塁とは?
まずは元寇防塁の説明から。
元寇防塁とは、鎌倉幕府が元の襲来に備えて築いた石垣。
かつては2.5〜3メートルもの石垣が、博多湾沿いに20キロも続いていたそうです。
この20キロとは、今でいう今津〜香椎。
なぜ元は襲来してきたのか?
そして20キロにも及ぶ防塁を作るほど恐れていた元とは?
下記に箇条書きですが、その歴史をまとめてみました。
- 13世紀 チンギス・ハンがモンゴル帝国を建国
- その子孫である五代皇帝フビライ・ハンは国名を元とする
- 元は中東アジアから東ヨーロッパに広がるほど巨大な王朝
- その元は日本に使者を送り交流を試みる
- しかし、鎌倉幕府はこれに応じず
- それに怒った元は1274年、博多湾に攻め込む。これが文永の役。
- 文永の役で博多の街は焼け野原に。再度の襲来を恐れた幕府は1276年に今津〜香椎に20kmにも及ぶ元寇防塁を築く
- 元の二度目の襲来(1281年の弘安の役)においては、この元寇防塁のおかげで再上陸を許さなかった
元寇といえば、神風などで撃退したイメージが強いですが、このように元寇防塁を築くことで侵略を防いだ過去もあります。
驚くべきことに、20キロにも及ぶ元寇防塁はわずか半年で築き上げたもの。
そのことから、どれだけ鎌倉幕府が元を警戒していたのかが伺えます。
元寇防塁の雰囲気
ここからは写真を交えて今津にある元寇防塁を紹介していきます。
こちらが200メートルも続く元寇防塁の復元展示。
防塁の高さは2.5〜3メートル。
元寇防塁は、九州各地から人が集められて作られたとのこと。
今津地区の元寇防塁は、大隅(鹿児島)と日向(宮崎)が担当。
元が滅んで防塁の重要性が薄れた後は、砂に埋もれてしまったものも多いとのこと。
そのため、最近では再開発の際に新たな防塁跡の出土もあるそうです。
因みに今津の元寇防塁一帯はご覧のように松林。
私が行った時は他に誰もおらず、独特の雰囲気でした。
史跡ひろばの場所は下記「アクセス」参照。
海の向こうから元が襲来してくるシーンを想像するとゾッとします。
その恐怖心が20kmにも及ぶ防塁を半年で作るという突貫工事を可能にしたのでしょう。
遠くに見える島は、玄界島。
元寇防塁へのアクセス・駐車場
黄色い線のものは、今回紹介したもの。
復元展示と史跡ひろばが表示されています。
多目的広場と表示されているのは駐車場のこと。
グーグルマップで見るとこのような感じ↓
赤色部分が駐車場です。
因みに、駐車場の写真はこちら↓
よって、雨の日などは足場が悪くなるので注意。
車に乗ったまま海を眺められる点は良いです。
以上、西区今津にある元寇防塁特集でした。