平尾山荘とは?
平尾山荘は、幕末に女流歌人として活躍した野村望東が過ごした場所。
中央区平尾5丁目にある。
野村望東は熱心な勤王家としても知られ、この平尾山荘で高杉晋作をはじめとする幕末の勤王志士を数多くかくまった。
現在の平尾山荘は1909年に向陵会によって復元されたもの。その後、1947年に福岡市が山荘と敷地の寄贈を受けた。
平尾山荘内の様子。
開場時間は9時〜17時で入場料無料。
私が訪れた日は誰もおらず、驚く位ふらっと入ることができた。
山荘内に部屋は3部屋(6畳・2畳・2畳)ある。
建物内に入るとガラッと雰囲気が変わり、タイムスリップしたような錯覚に陥る。
敷地面積は約3,700㎡と広大。
敷地内には、他の志士たちに先んじて亡くなった二人(平野国臣、中村恒次郎)を野村望東が思い歌った石碑などもある。
平尾山荘の前を通る山荘通りはウォーキングを楽しめる整備された綺麗な道。山荘通りをまっすぐ行って坂を登ると浄水通りに通じている。
山荘公園は数年前に大幅リニューアルしたばかり。遊具は新しいもの。休日になると多くの子供たちが遊ぶ姿が見られる。
野村望東とは?
野村望東とは女流歌人であり、勤王家。
1806年、現在の福岡・赤坂に生まれる。
17歳で福岡藩士に嫁ぐも半年余りで破局。
24歳で同藩士・野村貞貫の後妻となる。貞貫との間に四子を設けるが、皆幼くして他界。
27歳の時に夫と共に、福岡の歌人・大隈言道に入門。
40歳の時、夫の隠退を機に夫婦して平尾村向陵(むこうがおか)で隠居生活を始める。この平尾村向陵とは現在の平尾山荘がある場所のこと。
平尾山荘で読んだ歌は、歌集『向陵集』に収められている。
54歳の時、夫が亡くなったことを機に得度剃髪して「招月望東禅尼」となる。
その後、京坂へ旅に出たことをきっかけに勤王活動に目覚める。
長州の高杉晋作が藩内の俗論派台頭で身の危険を感じ福岡に逃亡してきた際は、平尾山荘に10日余かくまっていた。
60歳の時、勤王家をかくまった罪で姫島に島流し。しかし、高杉晋作の手配によって救出され、その後は長州(今の山口)へ移ることに。
下関で高杉の死を看取った後、自身は現在の防府市で62歳の時に亡くなる。1867年のことだった。
当時は女性への制約が多かった時代。このように表舞台で活躍した野村望東は極めて稀な存在だったと言える。
アクセス
住所:福岡市中央区平尾五丁目2-28
交通アクセス
- 天神から西鉄バス59系統「山荘通」下車徒歩5分
- 天神から西鉄天神大牟田線「平尾駅」下車徒歩15分