先日、久々に佐賀市内へ行き佐賀城周辺をブラブラしていたのですが、ある案内板を見てビックリしました。
なんと佐賀城の北堀は福岡藩が掘ったそうです。
今回はこのお堀について下記の点を中心にお伝えしていきます↓
- 北堀の画像
- 福岡藩と佐賀藩の関係
なぜ福岡藩は佐賀城のお堀を掘ったのでしょうか?
Contents
佐賀城のお堀

こちらは佐賀県立図書館の近くにあった案内板。
ここには下記のようなことが記載されていました↓
大きな特徴である80m前後の幅をもつ広大な堀は、江戸時代には「四十間堀」と呼ばれ、特に北堀は福岡藩の協力を得て掘られたことから「筑前堀」とも呼ばれました。
ご覧の通り、結構な幅があります。
今のように機械が発達していない時代にこれだけの堀を掘るとなるときっと大変な作業だったはず。
福岡藩と佐賀藩の関係性
ここまでの作業をするということは、福岡藩と佐賀藩は何か特別な関係だったのでしょうか?
気になって色々と調べた所、福岡藩が佐賀城の北堀を掘ったのはお礼だったようです。
その流れがこちら↓
佐賀藩は関ヶ原の戦いで西軍についていたが、東軍に敗戦する。
その後、黒田官兵衛(福岡藩初代藩主・黒田長政の父)に東軍・徳川家康との関係を取り持ってもらう。↓
そのお礼として佐賀藩は福岡城のお堀の一部を掘る。
これは肥前堀と呼ばれ、現在で言うと天神地下街の8番街周辺。↓
佐賀藩が佐賀城の改修を行った際、福岡藩は肥前堀のお礼として佐賀城の北堀を掘る。
お礼をお礼で返すということから、福岡藩と佐賀藩は良い信頼関係だったと言えるでしょう。
佐賀藩が掘った肥前堀は現在で言うと、天神地下街の8番街周辺。
現在ここにお堀はありませんが、お堀があった場所はこのように石積みの広場になっています。
普通に歩いたら気づかずに通り過ぎるかもしれませんが、ここは福岡藩と佐賀藩の信頼関係が詰まった場所なのです。
今度、天神地下街を歩く際は注目してください。
ここだけ石積みになっています。
まとめ
以上、佐賀城の北堀「筑前堀」についてでした。
福岡に「肥前堀」、佐賀に「筑前堀」という名称があることは各々が信頼し合っている証でもあります。
関連記事